2009年07月03日

ようこそ救世種の森へ「その2.”救世種”という”種”」

 世の中のどこかで
 
 ひとりでも苦しんでいる人や

 自然が乱されていく事が起きている間は

 
 決して平和とはいえない

 
 世の中のどこかで


 誰かの都合であらゆる生命体を


 思いのままコントロールされている間は

 
 決して平和とはいえない

 
 世の中にいるすべての生命体が

 
 世の中の自然な流れで発生し

 
 滅び、また発生し、

 
 そして世の中の自然な流れに


 たまたま人間として存在した私達も


 この森を守っていく「種」のひとつであることを


 一日も早く気づかねばならない
 

  時に乱れだすことのある世の中を
 
 ただ憂いたり、誰かに救いを求めたり

 
 ただそのとき、どきの世の中の流れに

 
 流されたり、見過ごすだけではなく

 
 自らが「種」に目覚め


 世の中を救う「救世種」であることに

 一日も早く目覚めることが

 
 大切なのでは、と思うのであります。
【みんなの声募集!「ようこそ救世種の森へ」の最新記事】
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2009年07月02日

ようこそ救世種の森へ「その1.救世種の森」

「種」に気づこう

「種」がない人はいないはず 

「種」を発芽させよう

「種」は必ずある
 

「種」を眠らせているだけ 

「種」に気づいたら、育てなければならない 

 
まずは「種」があることを信じましょう

 そして少しづつ水をやり、土を肥やし

 発芽する日を心待ちしましょう 
 
 
そして発芽しだしたら、もっと育つように 心がけましょう 

 
そうして皆が「種」に気づき、 
 
 「種」を育て発芽させ、また成長のために心がければ

 そこはいつか森となり、賑わうのであります。

   まずは普くすべてが「種」に気づき 

   普くすべてが互いに話し合い、
 
   助け合い
 愛し合い、解り合うことのできる世界となれば 

 
そこは「救世種の森」となるのです。 

 
ひとりひとりが 世界を救う「種」の一粒一粒であることに気づけば 

 
必ず普くすべてが望み目指す、

   平和で
安住な世界を迎える事ができると思うのです。
posted by ボンズクラブ事務局 at 16:34| Comment(2) | TrackBack(0) | みんなの声募集!「ようこそ救世種の森へ」 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

しゃべり場〜ある日のボンクラ和尚講演記録〜

〜「ち」を考える 〜

「ち」を考えると申しましても平仮名ですとまるでピンとこないかと思います。漢字を宛がいますと様々な漢字を思いつくことであろうと思います。また一文字のみ限定で宛がいますとその文字だけでの話で展開していくのもいささか押し付けがましいので敢えてタイトルは「ち」という平仮名にしております。

さて、わたくしども僧侶の話というものは、本来は話し手と聞き手の目指すところが同じであると至って理解しやすい平易な内容です。人というものは、各自どこを見て生きているか、どこに向いて歩いているか、どこに行きたいか、どこに到着したいか等々それぞれに違うものであります。いずれにせよ、まずはそういった視点を持ち合わせているかどうかが今日では先決問題と言えます。仏教には「煩悩即菩提(ぼんのうそくぼだい)」という言葉がありますが、「菩提〜悟り〜」は、「煩悩〜悩み〜」があるからこそ得られるものであり、「煩悩」に気付き、しっかり向き合う事が「菩提」への道程を歩みだした事であるから「煩悩即菩提〜悩みすなわち悟り〜」と申すのであります。互いに対峙したものや遊離したものではないのであります。悩みや迷い、苦しみ、悲しみ、怒り、恨み、不安等々は誰しも抱えているとはいうもののそれらからの一時的解放を促す数々の「癒し」へのいざないが我々の日常生活に蔓延しております。どうしようもない行き場のない「煩悩」に真正面から向き合う前にエスケープさせてくれるのでありますが決してそういう今日的傾向を全面否定するのではありません。問題はあくまでも一時的解放であるものを完全解放されたかのように錯覚することです。煩悩の根源を探求し真正面に向き合う事により、完全解放へと導かれていくと仏は説きます。繰り返し湧き出る煩悩も受け止め、向き合う力を培う事が大切なのであると思います。私は僧侶だからといって完全解放された訳ではありません。完全解放への道程を知った段階なのであります。その道程を「求道」、それを進み歩む心を「求道心」などと申します。その道を歩み進むと「求道心」がどこまで揺るがぬ信念なのか様々な事象や出逢いで試されるであります。その一つに「戦死者遺骨問題」があります。ある人物との出逢いから戦後60有余年経て海外戦死者約240万人中、ご帰還ご遺骨約130万柱ということ、つまり110万人のご遺骨は未だに山野森林や洞窟、海底深くで放置されている実態を知り、その問題に取り組むべく平成18年に「戦死者遺骨調査」のNPOを立ち上げ、まずはフィリピン現地入り調査に着手し、現在もNPOスタッフ全員で日々取り組んでいます。戦後60有余年でこの数字しかご遺骨調査収集の成果が上げられない諸事情も調べました。戦後処理の国家間問題、敗戦国の弱点、厚生省の怠慢等々様々な諸事情の中、祖国日本に帰れぬ人となった父、兄、弟等への惜別悲哀の感情を抱き続けながらも何が心の落とし所として受け入れることが出来たのか遺族の皆様に様々なお話しをお伺いし、私は仏教者としてこの実態を今更ながらとは言われてもどう捉えるべきなのかという取組みを「求道」の関所として受け止めている次第であります。

さて日本には古来「神霊」に対して「依代〜よりしろ〜」という対象物を設けて「神」に対しては「祈る」「捧げる」「願う」「守護」そして「霊」に対しては「慰霊」「供養」から「祈願」「守護」という拠り所信仰という慣習が根強くあります。その慣習は日本に仏教伝来したはるか以前から定着したものであります。自然崇拝という風習においては「死」「死別」という現実に送る側がどう向き合うかの究極的解決として「骨」に対しては自然界の循環の一要素として捉え余り執着せずに「霊魂」と送る側の永遠の交流に重点を置いてきたのであります。そこへ伝来してきた仏教はさらに精神哲学として執着心を強く否定する訳でありますからそれまでの日本の民俗習慣に拍車をかけることとなったともいえます。長い歴史の流れに定着した慣習が惜別悲哀に打ちのめされた戦死者ご遺族の心の落とし所となり、その落とし所を拠り所に転換する先として「靖国」、そして「英霊」という霊魂の神格化をも意味する位置付けこそが日本の戦死者慰霊でありご遺族対応だったといえます。

この「苦悩」との向き合い方が生きる力、生き抜く力となったのであると思います。現代人の今日的傾向である一時的解放や癒し効果なる事象の数々で苦悩や煩悩に真正面から向き合うことを回避ばかりしている日常生活ではこの力は決して培えないものと思います。その「力〜ちから〜」なんでありますが語源は「地から」だそうであります。つまり「大地から」生きるエネルギーを頂いているという意味でありましょう。

大地からは様々なエネルギーが生み出されています。それを頂いて生きている、生かされているのであります。そして生かされ活かすことが「生活」であります。「活〜活かす〜」の「力〜ちから〜」は「〜から」の「ち」ですか?ということで講題の「〜ちを考える〜」なのであります。身体の内側から頂いている「ちから」は「血から」であります。「血」は身体を巡る血だけではなく、自分の存在を生み出してきた血という意味もあります。学んできた知識で判断する「ちから」は「知から」、愚かな行動に走ってしまうエネルギーは「痴から」等々、自分自身のエネルギーや力を育み、培い、鍛え、磨いていく過程に「ち」を考えてみてはどうでしょうかと皆さんにお話ししている次第です。私の場合はやはりお釈迦様や偉大なる先師から頂く「智」が「力〜智から〜」とならねばならないし、それが「求道」道中で出会う諸問題や苦悩に真正面から向き合う「力」となると信じています。故に今日取り組んでおります戦死者のご遺骨調査収集を古来日本の慣習としての依代、拠り所信仰をも追悼の意をもって認めつつ、現実の置き去りのご遺骨一柱でも多く一日も早く祖国の自然界にご帰還していただきたくあらゆる「ちから」を活かし取り組んで行こうと思っています。                           
posted by ボンズクラブ事務局 at 10:03| Comment(0) | TrackBack(0) | 「バババの場」 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年06月29日

「我を非として・・・」第2章前回の続き

私が父にじゃれ甘え気分で「おとうさん」と呼んだのは、これが最後だった。それ以来、その時と同じ心境で父を「おとうさん」と呼んだことはない。呼びたい心境になったことは幾度とある。でも出来なくなったのである。
当時、我が家も丸い卓袱台であった。母が配膳をしている手が止まった。
「なにィ!」家中に響き渡る怒声、達磨大師を思わせる憤怒の眼光、卓袱台につく前に仁王立ちで私の「おとうさん!」という呼び声に即座に反応してきたのである。その瞬間、情けないかな私は泣き出してしまった。
続けて父は、
「上向いて吐くツバは、己に降りかかる!ワシが席につくまでに話すべきことかッ!?言うてみろッ!」と
仁王立ちで睨み付けたまま、泣きじゃくる私に詰め寄ってくるのである。私は3歳だった。
「男が泣くなッ!歯を食いしばれッ!泣くなと言うとるやろッ!」
唇が噛み切れてしまうのではないかと思うくらい、前歯で下唇を噛み続けるが泣けて泣けてしゃっくりのような引き泣き声になり、それをまたこらえようとすると鼻に力が入り、鼻水がバブル状態で鼻の穴を覆いつくすのである。配膳の手を止めていた母が私をかばい、
「今日は私の誕生日やから、亮はそれをお上人に言いたかったんですよ・・」と小声で言った。
続けて何故か姉が
「ごめんなさい・・ごめんなさい・・私が悪いんです・・」と言って姉まで泣き出したのである。
私の顔は、涙と鼻水と、とうとう切れてしまった下唇の血とでグチャグチャだった。
しかし、父はそんな状況に一切動じず、仁王立ちから安座に変わったものの怒声のまま、姉に向かい
「本日の反省を述べよッ!」
今思えばいつも姉は、強かったと思う。この後々、我が家の食卓では「いただきます」の発声の前に必ず個々の反省報告をして父の訓示が受けるというのが日課となった。そんな日々姉は、今日の反省を求められるといつも即座に答えていたのだから・・・。
泣いていた姉は、その父の問いに涙を拭いながら、
「亮ちゃんにクイズしようと言ったのは私です。ごめんなさい。」と答えた。恐ろしい5歳である。
「亮も反省を言えッ!」何とも3歳の子に反省など思いつくわけがないのに父は容赦なく詰め寄る。
「うッ、うッ、ひッ、んぐ、げぼッ、うッ、んぐ・・・」引き泣きで精一杯の私に
「泣くなッ!歯を食いしばれッ!」と相変わらず怒声の嵐・・・・。
母がタオルを持ってきて、優しき声で
「わかった、わかった、もう泣かんときよし。男の子やさかい、泣かんとき・・」とグチャグチャの顔を
拭いてくれたのを私は一生忘れることはない。その優しさにさらに泣けて泣けてどうしようもなかった。
「もうよい!そもそも一日の反省をろくにも出来ず、心を猿のように馬のようにはしゃぐことはならん!その落ち着きのなさが事故や怪我におよぶこと覚えておけ!わしの怒鳴り声では怪我はせん!亮がわしを呼んだその声は、上っ調子で心ここにあらずそのものである。何故ならそのような話は、食卓についてからでも出来る話である。まずは今日一日を振り返り、反省を済ませ、心静めること。笑いの多い生活は大きな落とし穴を見落とす。上を向いてつばを吐くと己にかかる上、落とし穴にも気付かぬ。今後、幾度となくお前達に解るまで言い続ける。ハイ、いただきます。」と説き、ご自身は合掌し、箸を手にされた。
「あんたらももう食べなさい。」母の目の奥は、涙が溜まっている。それをごまかすかのように土間の台所に降りて再度お清汁(すまし)を温めに行った。この訓示を当時の私が即座に記憶し理解できる訳はない。この父の訓示は本人も仰る通り、その後も今日まで繰り返し基本訓示として語り続けておられるので私もまとめて文字に起こす事が出来る。
子供心にはしゃいで甘えてじゃれて浮かれ喋りかけ飛びつくような父親に対するアプローチは、この一件以来ないのである。
母の声で私達も「いただきます」と蚊の鳴くような声で唱え、箸を持ってご飯茶碗を持ち上げたらもうお茶碗の中は、さらさらの茶漬けになっていた。涙の茶漬けの日々がこうしてスタートしたのである。(続く)
posted by ボンズクラブ事務局 at 04:24| 「我を非として・・・」 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年06月27日

「我を非として・・・」第2章〜お父さんの頃〜

実に毎日、我が家には多くの人が出入りしていた。朝6時には、上田のおばあちゃん、谷田のおばあちゃんは「おはようさんです。」と現れる。しばらくすると数人のおじいさん、おばあさんが現れる。本堂のお勤めに参拝した後、個々に何かしら用事があるのだ。上田のおばあちゃんは私を、谷田のおばあちゃんは厚子の面倒を、あるおじいさんは井戸水を汲み、顔を洗いうがいをして体を拭く。またあるおばあさんは、墓参りに、または庭掃除に・・・。母は、当時その方々の朝食も用意していた。教師として出勤する父の弁当作りも合わせて大忙しの朝、私が幼少の頃はまだ亀岡には水道が完全に配備されおらず、法華寺の生活水は井戸から汲み上げた水を利用していた。母は、京都市内の寺の娘であったが井戸の汲み上げ水を利用せざるを得ない生活などは経験がなかった。京都市内の中心部は、水道水生活が当たり前だったから、亀岡の「法華寺」という住職不在の荒れ寺に若き僧侶とその伴侶として送り込まれてからの生活は、すべてが驚きの連続であった。しかし若き僧侶は、そんな環境だからこそ宗門からの派遣復興の命令を快諾し、2歳の娘と私を身篭る母と共に法華寺に着地した。若き僧侶「杉若恵隆」のそれまでの生涯は、私が恵隆師匠を「お父さん」と呼んでいた頃によく聞かされたものである。現在は私は「父」を「師匠」もしくは「お上人」と呼んでいる。「お父さん」と呼んでいたのは小学5年生位までだったかと思うが「お父さんの頃」のその時代、世情、風景、出来事は幼き私の心に今も鮮明にレコードされている。
上田のおばあちゃんの朝の第一声は「オッサン!ハイおんぶしまひょ!」。
法華寺の一日は、そうして朝から慌しく始まり、昼過ぎには近所の子供達が厚子や私の遊び相手に来てくれる。夕方には法華寺を寺子屋として開放していたのでさらに小、中学生、高校生が集まってくる。父は学校から帰ってくるとその子供達の勉強を見ていた。本堂のみならずお寺の中は、子供だらけであった。
ある日、勉強している子供達の回りを走り回って台所に戻ってきた厚子が、夕食準備をしている母が何となく元気が無いので
「どうしたん?」と聞いたら、
「今日は、お母さんの誕生日なんやけどね・・・」とぽつりと言った。
姉は、うんわかったという風にうなづき、私に向かい
「二人でお父さんにクイズ出そう、今日は何の日でしょう?ってね。」
私もその配慮にさすがお姉ちゃんって感心しながらうなずいた。
七時には、子供達が一斉に各自自宅に帰る。現在のように親のお迎えなどない。車の往来はほとんどないというものの街灯が少ない暗い夜道、決して安全とはいえないのに子供達は逞しくにぎやかに帰って行ったものである。
本堂から台所に戻って来て食卓につこうとした父にクイズを出して驚かせたくてしょうがなかった私は
姉に先んじて、ひときわ大きな声で、しかも得意気なうわっついた声で
「お父さん!」と呼んだ。その先走った私のひと声が、その後々今日に至る父へのアプローチ法を決定付ける発端となったのである。(続く)

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2009年06月25日

2009年6月のテーマ「日常にいかすイカス・フレーズ」

かつてボンズクラブで「ポケットサイズ・ブッダズボイス」なるコーナーを設けていました。毎月の参加者の中に仏教僧がおられたら、その方からお薦めのワンフレーズ仏教語を他の参加者に向けて解説しながらホワイトボードに表記して頂いていました。現在のボンズクラブではそのコーナーは設けていません。今月のボンズクラブテーマで謳っている「イカスフレーズ」は、仏教語のみならず、名言、日常会話、
それぞれの座右の銘でもなんでもいいから、色んなシチュエーションで活かせるフレーズを参加者皆様と語り合いたいと思っています。是非、ご参加下さいませ。    ボンクラ和尚

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2009年06月22日

「死に場」

広辞苑によると「死ぬ場所」とか「死ぬべき場所、死に場所」とか・・・。あと「死の場面」ともある。

「脳死」か「心臓死」か臓器移植法案においての「死」の位置付けを政治家が取り決める。

それまでに各関係者との意見を交わしての事とはいえ、何かしら違和感があるのは私だけか・・・。

今のところ、人間はもれなく「死の場面」を迎える。

医学の進歩は、「生への可能性」と「死からの可能性」の探求によるのであろう。

一日でも長く生きていて欲しいと願う家族の気持ちを受けての延命治療に携わる医師、

一日でも早く臓器移植を受けなければいけない難病にかかっている幼き子供達の治療に携わる医師、

両方ともに言える事は「死に場」の引き延ばしなのである。

もし自分がそこに何かしらお役に立てるものなら後者の引き延ばしの一助となりたい。

その為に「脳死」と判断されるのは私は一向に構わない。周辺の人間にもそれを伝えおく。

大したお役にも立てずこの世をド厚かましく生きて来たのだから最後に一つ位お役に立てるなら

どうか難病で苦しむ方々のどなたかに私は臓器を提供したい。

誰がなんと言おうとそれが私の「死に場」である。         ボンクラ和尚

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2009年06月20日

「我を非として・・・」第1章前回の続き2

お寺から産院まで距離にすれば約2KMといったところか・・・。父は慎重にカブを走らせ産院に到着した。カブから降りる前に跨いだまま後部座席の厚子に右手を回した。その右手は空を切り、バランスを崩した。「いない!」血の気が一気に引き、カブから飛び降り、とにかくカブの周辺をぐるぐる回り厚子を探すがやはりいない。産院の門灯の薄明かりを頼りに辿ってきた道を轍沿いに少し小走りで戻ってみたが見当たらない・・・。寺からの道中で落ちてしまったのか・・・・、慌てふためきカブに戻り、エンジンをかけてとにかく戻る事にした。雪は相変わらず降り続いている。街灯も少ない夜道を再度慎重に目を凝らしながらカブを走らす。寺と産院の中間あたりにさしかかった時にヘッドライトが道の中央にころがる物体を照らし出した。「厚子!」叫ぶと同時にアクセルに力が入る。ややスリップしつつころがる物体近くまで辿り着き、確かに厚子と認識し、カブから飛び降り厚子を抱きかかえた。
「ごめんごめん、どうもないかどうもないか」と厚子の体じゅうをさすりさすり、強く強く抱き締めた。涙一つ見せず厚子は、凛としている。いやキョトンとしているというべきであろう。今の時代なら、後続車や往来する車に跳ね飛ばされていることだろう。まだまだ車社会でない田舎の優雅な時代と寺に詰めてくれているおばあさん達の完全防寒の厚子の着衣で厚子2歳の命を救ったともいえるが宗教的感性で言うとあらゆる偉大な力に守られたと素直に感謝してしまうのである。厚子の着衣に付いている雪を掃い、気持ちを落ち着かせ再度カブに跨り、今度は確実に左手で後部座席の厚子を支えつつ産院へ向かった。
そんな事があったとはつゆも知らない母は、ようやく到着した父を笑顔で迎え、
「男の子でした。」父に抱きかかえられている厚子に
「アッちゃん、弟やで」とご機嫌に語りかけた。その母の声を機に厚子はそれまでおそらく堪えていたのであろう・・・、火のついたように泣き出し、父から降りて母の枕元に駆け寄った。この涙が尋常ではないことは母には判る。
「お寺でなんかあったんか?どうしたんアッちゃん?」泣きじゃくる厚子が答えられるはずもない。
父は、寺からの道中で厚子を落としてしまったことを告げた。亭主関白とか話題にも上らないそれが当然であるかのような時代につけ、住職としての絶対権力に家人は服従であったがこの時ばかりは母も声を大にして
「お上人の不注意です!誰のせいでもありません。厚子に謝って下さい!」と自分自身の動揺を抑えながら父に告げ、厚子を抱き締めた。
数時間後、寺に戻った父は留守番をしてくれていたおばあちゃん達に事の顛末を話した。上田のおばあちゃんは、自分の不安が的中したことを少々得意気に
「ほれみなはれ!なんやしらん胸騒ぎがしてたさかい、なんべんも注意しましたやろ!無事でよかったけどほんまに若い人は、年寄りの忠告にもっと耳貸さなあきまへん!」と叱咤した。父29歳であった。
谷田のおばあちゃんは、厚子を抱きかかえ
「あんたは、仏さんのお子やさかい、ちゃーんと守ってくれてはります。よしよしナンミョウホウレンゲキョウ、ナンミョウホウレンゲキョウ・・・」
その夜は、私の誕生より姉・厚子の事件が事無きを得たので、安堵で話題も多岐に亘り、泣き笑いの夜になった。
しかしこの厚子落下事件は、今だにこのおばあちゃん方の子孫にも語り継がれており、私自身は生まれたばかりで当然記憶にあることではないが昭和34年12月24日当日の事細かい情景まで当事者の方々乃至子孫の方々から克明に今日まで教えて頂いたおかげで自分の誕生秘話として語ることが出来るのである。ただし、決して私は主役ではない。単に男の子誕生ということだけ。しかし世襲制ではないが寺に男の子が誕生するということがいかに分別ある大人たちがそれぞれに歓喜の余り、冷静さを欠いて浮き足立ってしまうか、それは檀信徒と住職家族が日々喜怒哀楽を共にし、親睦を深めるが故に信頼関係が結ばれ、その住職に息子が産まれたならば、檀信徒一丸となってその息子を優しく逞しく健やかに育つことを願い、見守り、後継者として独り立ちしてほしいという純真なる思いからの歓喜なのであろう。
この日の思い出を色んな人から幾度と聞く度に今は亡きそのおばあちゃん達に合掌する。
母が産院から戻った日に上田のおばあちゃんが初めて私を母から渡され抱きかかえた時に大声で
「オッサン誕生や!でかした!でかした!」と叫んで泣いていた。涙が私の顔に落ちた。
その涙を乾かすことは出来ないのである。(第1話 オッサン誕生 終)
posted by ボンズクラブ事務局 at 04:01| 「我を非として・・・」 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年06月16日

「我を非として・・・」第1章前回の続き

 当時、お寺といえばやはり憩いの広場として、ほぼ毎日檀家さん達のみならず近隣の方々も早朝から日が暮れるまで集い、談笑しながら時には朝食から夕食までご一緒され、また時には境内の掃除も幼子のお相手もして下さったものである。今で言うコミュニティ広場の様相そのものであった。私より2年早くに産まれた姉・厚子は、谷田のおばあちゃんに毎日オムツを替えてもらっていた。常連の顔ぶれは、谷田のおばあちゃんをはじめ上田のおばあちゃん、中村さん、鹿田さん、そしてお隣のおじいさんと・・・・。当然、もう今か今かと出産連絡をこの面々もその夜、お寺で固唾を呑んで詰めて下さっていた。けたたましく鳴り響く電話にいち早く出たのは、谷田のおばあちゃんであった。
交換手が言う「友則医院からです。」
「はい、どうぞ」と冷静に谷田さんが答える。当時の電話は、交換手経由だった。
「元気な男の子さんです。午後7時30分無事出産されました。」
「へ、おおきにさん。大変お世話になりましたなぁ、すぐにそちらにお伺いします。
ところで母親は無事ですかいなぁ?」
谷田のおばあちゃんは、かつて若き頃教師を勤めておられたせいか、いつも機転が利き、気配りは抜群、寺の常連仲間のリーダー的存在で何でもこなすスーパーばあちゃんだったと今も母は回想して語ることがあるが、その電話のやりとりをしながら、父に(早く産院へ行け)という指示を目と指で出していた。
「はい、おかあさんもお元気ですよ。」
「へ、おおきに、ほな失礼します、先生によろしゅう言うとくなはれや。おおきに」
その電話を切った時には、外でスーパーカブのエンジンをかける父、上田のおばあちゃんが急いで2歳の厚子にモコモコのオーバーを羽織らせ、マフラーを巻き手袋をはめさせて毛糸の帽子を被らせて産院へ一緒に行く準備をしている。上田のおばあちゃんは、谷田さんとはまた違った行動派で姉御肌の粋のいい、とても捌けたおばあちゃんであった。その上田のおばあちゃんが完全防寒でモコモコに着込んだ厚子を抱いて、門前でカブに跨り待っている父のところへ出てきて
「あらま、雪降って来てまっせ。まだ積もりはせんやろうけどなぁ・・・」
そう言いながら少々不安気にカブの荷台に厚子をちょこんと座らせ、
「しっかりお父ちゃんにしがみついてなはれや!」とわずか2歳の厚子に檄を飛ばし、
ハンドルを握る父にも
「雪道になりそうやさかい、ゆーっくりゆーっくり行きなはれや!」と送り出した。
昭和30年代前半、田舎の夜道に車が往来することは極めて少ない。チラチラと舞い落ちていた雪も誰に荒らされることもなく、ほんの数分で夜道に白い絨毯が敷かれていく。よろよろと走り行くカブの後姿を上田のおばあちゃんが合掌で見送る。心の中でつぶやいた・・・、「気ィつけなはれや・・・」と。
そして数分後、上田のおばあちゃんの不安は的中するのである。(続く)
posted by ボンズクラブ事務局 at 00:02| 「我を非として・・・」 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年06月07日

「我を非として・・・」第1章〜オッサン誕生〜

 近頃の出産シーンと言えば、医療の進歩と設備の整った産婦人科にて安全かつ慎重に妊娠から出産
までの検査や超音波CTなど万全の対応であるし、分娩には夫が立ち会うラマーズ法とか無痛分娩とか
「産みの苦痛」も極力和らげる手法を取る事も出来る時代となった。かつての出産シーンと言えば助
産師いわゆる「産婆さん」が手馴れた手順で出産の救世主として立会い、赤ちゃん誕生の補助をしてくれていた。しかし今や出る幕はほとんど無くなったのではないだろうか・・・。昭和30年代はまだまだ「お産婆さん」は大活躍だったが、しかし慎重を尽くし果たす為、当時はまだ珍しい産院にて出産を迎えようとする人もいなくはなかった。杉若家の選択は、その慎重派であった。昭和34年12月予定日が近づき、母は産院にて陣痛が来るのを静かに待ち構えていた。父は、法華寺にて檀信徒のお婆さん達と2歳の娘をあやしながら、産院からの連絡待ちをしていた。そろそろ今日あたりかという24日、夕刻からチラチラと雪が舞い降り出した。柱時計が午後7時30分の時報を打つとほぼ同時にけたたましく電話が鳴り響いた。(続く)
posted by ボンズクラブ事務局 at 04:08| 「我を非として・・・」 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする