〜「ち」を考える 〜
「ち」を考えると申しましても平仮名ですとまるでピンとこないかと思います。漢字を宛がいますと様々な漢字を思いつくことであろうと思います。また一文字のみ限定で宛がいますとその文字だけでの話で展開していくのもいささか押し付けがましいので敢えてタイトルは「ち」という平仮名にしております。
さて、わたくしども僧侶の話というものは、本来は話し手と聞き手の目指すところが同じであると至って理解しやすい平易な内容です。人というものは、各自どこを見て生きているか、どこに向いて歩いているか、どこに行きたいか、どこに到着したいか等々それぞれに違うものであります。いずれにせよ、まずはそういった視点を持ち合わせているかどうかが今日では先決問題と言えます。仏教には「煩悩即菩提(ぼんのうそくぼだい)」という言葉がありますが、「菩提〜悟り〜」は、「煩悩〜悩み〜」があるからこそ得られるものであり、「煩悩」に気付き、しっかり向き合う事が「菩提」への道程を歩みだした事であるから「煩悩即菩提〜悩みすなわち悟り〜」と申すのであります。互いに対峙したものや遊離したものではないのであります。悩みや迷い、苦しみ、悲しみ、怒り、恨み、不安等々は誰しも抱えているとはいうもののそれらからの一時的解放を促す数々の「癒し」へのいざないが我々の日常生活に蔓延しております。どうしようもない行き場のない「煩悩」に真正面から向き合う前にエスケープさせてくれるのでありますが決してそういう今日的傾向を全面否定するのではありません。問題はあくまでも一時的解放であるものを完全解放されたかのように錯覚することです。煩悩の根源を探求し真正面に向き合う事により、完全解放へと導かれていくと仏は説きます。繰り返し湧き出る煩悩も受け止め、向き合う力を培う事が大切なのであると思います。私は僧侶だからといって完全解放された訳ではありません。完全解放への道程を知った段階なのであります。その道程を「求道」、それを進み歩む心を「求道心」などと申します。その道を歩み進むと「求道心」がどこまで揺るがぬ信念なのか様々な事象や出逢いで試されるであります。その一つに「戦死者遺骨問題」があります。ある人物との出逢いから戦後60有余年経て海外戦死者約240万人中、ご帰還ご遺骨約130万柱ということ、つまり110万人のご遺骨は未だに山野森林や洞窟、海底深くで放置されている実態を知り、その問題に取り組むべく平成18年に「戦死者遺骨調査」のNPOを立ち上げ、まずはフィリピン現地入り調査に着手し、現在もNPOスタッフ全員で日々取り組んでいます。戦後60有余年でこの数字しかご遺骨調査収集の成果が上げられない諸事情も調べました。戦後処理の国家間問題、敗戦国の弱点、厚生省の怠慢等々様々な諸事情の中、祖国日本に帰れぬ人となった父、兄、弟等への惜別悲哀の感情を抱き続けながらも何が心の落とし所として受け入れることが出来たのか遺族の皆様に様々なお話しをお伺いし、私は仏教者としてこの実態を今更ながらとは言われてもどう捉えるべきなのかという取組みを「求道」の関所として受け止めている次第であります。
さて日本には古来「神霊」に対して「依代〜よりしろ〜」という対象物を設けて「神」に対しては「祈る」「捧げる」「願う」「守護」そして「霊」に対しては「慰霊」「供養」から「祈願」「守護」という拠り所信仰という慣習が根強くあります。その慣習は日本に仏教伝来したはるか以前から定着したものであります。自然崇拝という風習においては「死」「死別」という現実に送る側がどう向き合うかの究極的解決として「骨」に対しては自然界の循環の一要素として捉え余り執着せずに「霊魂」と送る側の永遠の交流に重点を置いてきたのであります。そこへ伝来してきた仏教はさらに精神哲学として執着心を強く否定する訳でありますからそれまでの日本の民俗習慣に拍車をかけることとなったともいえます。長い歴史の流れに定着した慣習が惜別悲哀に打ちのめされた戦死者ご遺族の心の落とし所となり、その落とし所を拠り所に転換する先として「靖国」、そして「英霊」という霊魂の神格化をも意味する位置付けこそが日本の戦死者慰霊でありご遺族対応だったといえます。
この「苦悩」との向き合い方が生きる力、生き抜く力となったのであると思います。現代人の今日的傾向である一時的解放や癒し効果なる事象の数々で苦悩や煩悩に真正面から向き合うことを回避ばかりしている日常生活ではこの力は決して培えないものと思います。その「力〜ちから〜」なんでありますが語源は「地から」だそうであります。つまり「大地から」生きるエネルギーを頂いているという意味でありましょう。
大地からは様々なエネルギーが生み出されています。それを頂いて生きている、生かされているのであります。そして生かされ活かすことが「生活」であります。「活〜活かす〜」の「力〜ちから〜」は「〜から」の「ち」ですか?ということで講題の「〜ちを考える〜」なのであります。身体の内側から頂いている「ちから」は「血から」であります。「血」は身体を巡る血だけではなく、自分の存在を生み出してきた血という意味もあります。学んできた知識で判断する「ちから」は「知から」、愚かな行動に走ってしまうエネルギーは「痴から」等々、自分自身のエネルギーや力を育み、培い、鍛え、磨いていく過程に「ち」を考えてみてはどうでしょうかと皆さんにお話ししている次第です。私の場合はやはりお釈迦様や偉大なる先師から頂く「智」が「力〜智から〜」とならねばならないし、それが「求道」道中で出会う諸問題や苦悩に真正面から向き合う「力」となると信じています。故に今日取り組んでおります戦死者のご遺骨調査収集を古来日本の慣習としての依代、拠り所信仰をも追悼の意をもって認めつつ、現実の置き去りのご遺骨一柱でも多く一日も早く祖国の自然界にご帰還していただきたくあらゆる「ちから」を活かし取り組んで行こうと思っています。
posted by ボンズクラブ事務局 at 10:03|
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